福岡教育大、教育学部中学技術への志望理由書です
これをもとに面接の対応もかんがえています
1200字以内なら自由にかいていいそうです
小学四年生の時の担任に出会い、私は教師という職業に興味を持ち始めました。その先生は大学を出て間もない先生でしたが、先生自身が何事に対しても一生懸命で、私たちに努力の大切さや最後まで諦めないことの尊さを教えてくれました。そして、何よりも私たち一人一人のことを大切にし一番に考えてくれていることが伝わってきました。その頃から、漠然としてですが、私もこの先生のような教師になりたいと思い始めました。
人はひとりでは生きていけません。誰かを支えたり、誰かに支えられたりということを繰り返していくのだと思います。その中で多くの人と出会い、「自分」を見つけ人生が豊かになるのだと思います。自分にとって中学時代は,生徒会長という重責にあり、他との関わりについて一番悩んだ時期でした。悩んだからこそ、「他との出会い」や、「自分を見つける」ことの大切さを知ることができたと思っています。今では、その大切な時期に携わることのできる中学教師になることが私の夢です。
私が貴大学を唯一の進学先と決めたのは高校二年次の担任の勧めがあったからです。先生は進学指導に長けており、日本中の学部学科の研究をされていました。また先生の親類も貴大学を卒業し佐賀県で数学の教鞭をとっていらっしゃる方がおり、机上の空論に終わらず、裏付けされた大学の説明をしてくれました。その時から貴大学でしっかり教育について学べたらという希望をずっと抱いてまいりました。
中学時代、学校にくることを苦痛に感じていた友人がいました。そんな彼が笑顔を見せるのは、友達と会話をする時と、技術や、美術、家庭といった、何かを形にする授業の時でした。一生懸命作品を作りだそうとする彼は生き生きと輝いていました。きっと彼は、自分の心にある悩み、迷い、そして、喜びや、希望を作品に表現しようとしていたのだと思います。もし、これらの授業がなかったら、彼は学校という空間で、自分を表現できなかったかもしれません。この時の思いが忘れられず、私は「技術」という教科を選びました。共に「もの」を作り、心を表現する機会を与えることのできる教師になりたいです。そして、「教育」という字が「共育」と表現できるように、生徒と共に学び、生徒と、人と関わっていく教師になりたいと思います。 硬式野球部の副キャプテンを務めることで、考えの違う人々をひとつにまとめようとするキャプテンの難しさ、大切さを知りました。キャプテンと他者の間に入り、技術面を磨きながら、精神面も鍛えることができました。また、日々の学習、クラスの諸行事と、私の高校生活は充実していたと思います。誇れることは、困難から逃げ出さなかったこと、常に前向きであったことです。この精神を忘れずに、自己の目標である教師を目指し、是非とも貴大学で、技術教師としての「技」を身につけたいです。そして、何より心の豊かな子どもを育むため、自分の内面を磨きたいと思っています。
もっと自分の具体的な経験などをいれたほうがよいでしょうか
全体的に間違った文章がありましたらご指摘お願いします
管理人回答:抽象的過ぎですし、主観的過ぎます。
あなたは賢い人ですが、自分の賢さに溺れています。
管理人がそう判断する根拠のひとつは、話が抽象的、理想的にまとまり過ぎている点です。頭で考え出しただけだろうと邪推されても仕方ないでしょう。たとえば、
>その先生は大学を出て間もない先生でしたが、先生自身が何事に対しても一生懸命で、私たちに努力の大切さや最後まで諦めないことの尊さを教えてくれました。そして、何よりも私たち一人一人のことを大切にし一番に考えてくれていることが伝わってきました。
具体的な出来事、経験が何も書かれていません。単なる理想の教師像を述べているだけです。
>自分にとって中学時代は,生徒会長という重責にあり、他との関わりについて一番悩んだ時期でした。悩んだからこそ、「他との出会い」や、「自分を見つける」ことの大切さを知ることができたと思っています。今では、その大切な時期に携わることのできる中学教師になることが私の夢です。
ここにも、生徒会長をやったこと以外、何にどう悩んだのか、関わりに悩んだ「他」とは何か、一切不明です。ちなみに「他」は端折りすぎでしょう。「他の人」「クラスの仲間」などきちんと書かないと、利巧ぶったイケスカナイ奴だと思われます。
>先生は進学指導に長けており、日本中の学部学科の研究をされていました。また先生の親類も貴大学を卒業し佐賀県で数学の教鞭をとっていらっしゃる方がおり、机上の空論に終わらず、裏付けされた大学の説明をしてくれました。その時から貴大学でしっかり教育について学べたらという希望をずっと抱いてまいりました。
結局、その高校の「担任」が、どういう理由で「貴学」を勧めたのか、何も書かれていません。ついでですが、言葉として間違っていませんが、担任の先生を「担任」と呼び捨て的に繰り返すことも、避けたほうがいいでしょう。
主観的過ぎるのは、下記です。
>中学時代、学校にくることを苦痛に感じていた友人がいました。そんな彼が笑顔を見せるのは、友達と会話をする時と、技術や、美術、家庭といった、何かを形にする授業の時でした。一生懸命作品を作りだそうとする彼は生き生きと輝いていました。きっと彼は、自分の心にある悩み、迷い、そして、喜びや、希望を作品に表現しようとしていたのだと思います。もし、これらの授業がなかったら、彼は学校という空間で、自分を表現できなかったかもしれません。
単に、あなたが彼の様子をみて、そう感じた、そう推測したというだけのことです。そうとしか書かれていません。彼に何か話を聞いたのなら、それを書かないとまるで作り話です。
>「教育」という字が「共育」と表現できるように
などという小賢しい話も書かないほうがいいでしょう。