少し古くなるのですが、2022年10月4日付朝日新聞の朝刊の『論の芽』というコラム記事で、若い世代の人たちが、「冷たい感じがする」から、文章に句読点( 。や、)を使わない、その代わりに改行などを使うという話題がありました。
代筆サービススタッフで、比較的年配者でもある筆者は、それを読んでのけ反ってしまった訳です。親しみやすさを演出するために絵文字を使うというのは理解できますが、句読点を使わないというのは理解に苦しみます。実は、代筆サービスご利用のお客様の中でも、事前の情報のやり取りをするのに、まったく句読点のない文章を送っておいでになる方が時々あります。筆者は、それを(大変失礼ですが)小学校時代に作文の基礎の勉強を疎かにしたためかと想像していたのですが、この記事を読んで、わざと句読点を使わない人もいるのかと半ば納得し、半ば驚いた次第です。
しかし、これはどうなのでしょうか。句読点は、日本語の書き言葉を使いやすく読みやすくするために、先人たちが苦心して編み出した符号であり、方法だと思います。前述の新聞コラムでも、明治期までは日本語の文章に句読点は存在せず、外国語の文章を翻訳するため句読点が導入されたのだという説が紹介されていました。江戸時代までの古文や明治初期あたりの文章を見ると、その説が正しいのだろうと感じます。よくぞ句読点を発明してくれたと思うほどです。ちなみに、明治期の小説家・樋口一葉は句読点は使用していますが、会話を表現するカギカッコ(「 」)は使っておらず、かなり読みづらいのです。
脱線しましたが、こうした日本語の書き言葉を使いやすくするための努力の成果のひとつが、句読点だと思います。日本語の書き言葉では体言止め(「なんと素晴らしい風景。私は~」「大切なのは読み返すこと。なぜなら~」というような用法)や、倒置法(「絶対間違いないよ、これは。」「理由は~~だから。」といった用法)が使われることがあります。こういう部分で句点(。)がないと前後の文との区別が不明になって、非常に判読しづらくなります。句読点忌避派(?)の人は、その代わりに改行や空白を使えばよいと考えるようですが、メールなどの場合、メールソフトの違いなどで余分な改行が入ったり、改行が失われたり、*のようなおかしな符号が入ったりすることが少なくありません。
そして、代筆サービスご利用のお客様とスタッフの間でのやり取りというのは、親しく楽しく交流するためのものではなく、必要な文章を作成するためのごく事務的な情報交換です。そこで句読点のない文章を書かれてしまうと、スタッフとしては書き手(お客様)の真意が非常に理解しづらくなってしまうのです。まして、作成する文章の多くは、志望動機とか昇格論文とか、ごく改まった文章です。そんな文章に絵文字を使う人などいないでしょう。句読点も同じことです。そういう改まった文章を作成するための情報交換ですから、やはりその段階から句読点を正しく使った文章でやり取りすべきだろうと思っています。